気が付けば年月は過ぎていて、こう言う瞬間に「光陰矢のごとし」と言う言葉を実感する。
ああ、今年もやってきた。この季節が。
世界が乙女の甘くドロドロした欲望に包まれて、男共が淡い期待を抱いては沈んでいくこの行事が。
去年までの俺は数多の男共と同様に、この時期抱く淡い期待を、可愛いデコレーションを全身に施した現実主義者の女の子達に一刀両断された挙句、丁寧にすり潰されていた。
だが!声を大にして言いたい。
「今年の俺は、去年までの俺とは違うのだよ……諸君……」
にやりと不敵に笑うと、傍に居た一休がそっと視線を逸らした。
生温い空気が其処彼処から俺に向けられる。
俺は笑いながら誓う。
後で沈めよう、こいつら。
「王城の、若菜さん、だったか」
雲水が柔軟をしながら俺に声をかけてくる。俺は其れを手伝いながら頷いた。
他の奴ら?知らねえな、滝壺で寒中水泳でもしてるんじゃねえの。けっ!
「応!後で俺東京行って来るから、部活早退するから!」
「……一週間ぶりに出てきたと思ったら早退するのか、お前。悪い、もう少し押してくれ」
「ん、こんくらいかー?良いだろ、別に」
この日の為に態々東京の本屋で参考書(と言う名のゲーム雑誌)を注文したんだから!と言う俺に雲水は視線を逸らした。
お前までそんな目を……!!いや、違う!俺の周りで一番こう言う視線を向けてくるのは、雲水だ!
「其処までしたのか、っと有難う」
「良いだろーが。俺はマジなんだよ」
柔軟を終えた雲水から手を離し、僅かに上にある雲水の顔を睨むと、雲水は何故か優しく笑っていた。
久しぶりに見た其れに驚くより先に背筋が凍りつく。これは紛れも無く、恐怖である。
「ううう、雲水?!」
声が裏返るが決して俺が悪いわけではない。
「お前が何を考えているか手に取る様に解るが、今日はとりあえず見逃そう」
「あ、いつもの雲水だ。で、さっきのいつものじゃない雲水は何だったんだ?」
鋭い眼差しで睨まれるが高速で視線を逸らして回避。セーフセーフ。
舌打ちが聞こえるが聞こえない振り。ギリギリ、俺ちょうギリギリ。
「まあ、良い。……俺は唯、其処まで好きになれる相手が居るのは良いなと思っただけだ」
「ん?」
「生憎と俺にはアメフトしかないからな」
雲水はまた笑った。アメフトしかない、と言いながらやけに爽やかな笑顔で。
こいつのこの顔は正直な話嫌いじゃない(突然来るから結構恐怖ではあるけど。普段とのギャップで)
こう言う顔を見る度こいつが『兄貴』なんだな、と思う。
「ん、羨ましかろう」
照れくささを誤魔化す為に軽口を叩くと、後頭部を優しく叩かれた。
思わず「兄ちゃん……!!」と抱きつきたい衝動に駆られるが、その後で投げられるか殴られるか肘が入るかわからなかったので止めた。いや、こいつの事だから全部来る気がする。
欲望を持つのも人間だが、欲望を押し留められるのも人間だ。
「行って来い、。俺は見送ってやるよ」
「雲水……」
胸の奥が熱くなる。
こっ恥ずかしいけど、何か友情ってやつを実感した。
ああ、何かやっぱ良いよな、こう言うの。信頼できる、頼りになる仲間が居るって。
「まあ、監督と言う壁に勝てたらの話だけどな」
因みに俺は手伝わないぞ。
いつもの口調で雲水が告げ、すたすたと滝壺へと歩いて行った。
其の向こう側、枯れ木の様な身体に不似合いな鋭い眼光が俺を射抜いている。
前言撤回。信じられるのは己のみ。
予想以上に暗くなってしまった。其れも其のはず、気が付けば今は夜の10時を回っている。部活が始まったのが4時半過ぎなのに、俺が部活を抜けようとしたのが5時過ぎなのに。
其れもこれも全てあの爺の所為だ。ありえない、遅くとも6時には東京に居る予定だったのに。
頭の中で思いつく限りの罵詈雑言を爺に向けて発し、俺は全速力で王城へ向かった。
例え猫に追い抜かれようと、ウォーキングをする老人に不審者を見る目で見られた挙句競歩で逃げられたとしても、俺は行かねばならない。
「って言うか、何で俺こんなに、疲労してんだよ……!!!」
自分の境遇に腹が立って、思わず裏拳でツッコミを入れてしまう。
其れが最後だった。
「おわ……」
俺は心底自分が馬鹿だと思った。
疲労しているのに、更に自分で自分に止めを入れてしまったのだから。
見上げた空は明るい。星が眩しいくらいだ。
「東京なのに……」
其れは偏見だぞ、と雲水の声が聞こえた気がした。幻聴だよな。
「………俺、此処で死ぬのか?」
東京のど真ん中、しかもちょっと高級住宅街寄り。明日の新聞の隅っこに載るかな、俺。
載ったら誰か泣いてくれるかな。雲水とか泣くより前に呆れそうだな。一休は「情けないっすよさん」とか言って泣きそうだな。西遊記トリオとか、サンゾーとかも何かそう言う泣き方っぽいよな。阿含は絶対来ないよな。
あ。
若菜ちゃん。
泣いてくれるかな。
俺の為に、泣いてくれるかな。
会いたいな、会いに来たんだけどな。
「さん?」
会いたさの余り幻聴と幻覚か?声のする方に顔を向けると驚いた表情の若菜ちゃんが居た。
「わかな、ちゃん?」
「さん、どうしたんですかこんな所で!あの、お怪我とか……」
「あ、いや。あのちょっと疲れて座り込んじゃって。あーっと、本屋に注文してた本取りに来て」
突然の展開に頭が着いていかない。言おう言おうと思ってた台詞が全部氾濫してくる。
不意打ちに弱い男、。正直今穴を掘って埋まってしまいたい。
若菜ちゃんは可愛らしく首を傾げながら笑った。
「大丈夫そうですね」
「うん、ちょっと疲れてただけだから」
掴まって下さい、と腕を差し出され、少し躊躇ってから其れに掴まった。
ああ、もう、情けないけど……嬉しすぎる。
俺この手洗えない。
いや、洗うよ。臭いと若菜ちゃんに嫌われるよ。
でもこの感触は忘れたくねえ。
ぷるぷる生まれたての小鹿の様に震える脚で頑張って立ち上がる。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫。……多分」
余りの消耗っぷりに自分でも不安が残るが、今日は東京の実家へ帰れば問題ないだろう。……多分。
若菜ちゃんも不安そうに俺を見ていたが、ふと何か気が付いたのか鞄をごそごそと漁りだした。
其の行動に首を傾げていると、若菜ちゃんは小さな箱を取り出した。
「宜しければどうぞ」
「へ?」
反射的に受け取り、よくよく見てみれば其れはクッキーの箱だった。
「おやつに食べようかと思って買ったもので申し訳ないんですけど。疲れたときには甘いものが良いと思って」
「え、いや、でも悪いんじゃ……」
「いえ、良いんですよ」
にこ、と満面の笑みで若菜ちゃんは言った。
ほっこり胸の奥が暖かくなる。
チョコレートは貰えなかったけど、今回はこれで十分だ。
若菜ちゃんが俺を心配して渡してくれた。義理チョコ貰う何倍も嬉しい。
「有難う、大事に食べるよ」
「はい!」
笑う若菜ちゃんに俺も笑い返して、家へと駆けて行く小さな姿を見送った。
手に残ったのはクッキーの箱。
其れを握り締めて、俺は其の場に倒れた。
「ちょ、やっぱ……きつ……」
肉体的疲労が限界点を突破した瞬間だった。
でも良いんだ、胸の奥が暖かいから。
幸せな気持ちを抱えたまま、俺はそっと携帯を取り出して実家へ電話をかけた。
熱闘!バレンタイン!
(もしもし母さん?ごめん、疲れて動けなくなった。迎えに来て。場所は――って、ちょ、まっ!電話切らなっ!)
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