ラ ン ニ ン グ ハ イ 

 「あれ?」
 店に忘れ物をしたと気付いたのは、次の日の事だった。折角の定休日だし、久しぶりにのんびりしようとした矢先だったから面倒だなと一番初めに思った。
 明後日になれば取りに行けると分かっていたし、特に大事なものだったわけでも無いからいつでも良いとは思っていたが、気になったら何故か頭から離れなくなっていた。
 仕方ない、取りに行くかと重い身体を強引に動かして店に向かう。




 そして、近い未来、過去のこの行動を褒め称える事になる。














 目的の場所に到着した時、閑散とした店の前に1人の男が立っているのが目に入った。
 難しい顔をして、店を見上げている。
 顔立ちは極一般的、年齢は20代前半から半ばくらいだろうか。おそらく一度も染めた事が無いのだろう黒髪は、遠目からでも痛んだ様子は無いのが分かる。若干伸びすぎかな、と感じる髪から新規の客だろうかと予想する。
 近付こうとする前に、先程まで考え込んでいた彼は何事か納得したのか其処から立ち去ろうと足を動かした。



 あ、行っちゃう。



 「何か用事かな?」
 気が着いたら声をかけていた。
 振り向いた彼の目が少しずつ大きく開かれて行くのがスローモーションで見えた。
 完成形は何だか凄く間抜けで、とても面白い顔だった。
 目と同じ様にぽかんと口も開いて、間抜け面ってこういう表情を言うのかと何だか妙に感心してしまった。
 「新規のお客様かな?申し訳ないけど、うちは今日定休日なんだ。また、後日予約を入れて来てもらえるかな」
 そんな事を考えながら、口は営業用の台詞を紡いで行く。
 多分違うだろうな、とは思ったけれど口にはしない。
 彼は中途半端な体勢で止まったまま僕の顔を凝視している。値踏みされている様だけど、嫌な感じがしないのは其処に打算が含まれていないからだろう。
 唯純粋に、目の前の対象を見ている。
 何だろう、この感覚。


 嗚呼、そうか、展示品を、美術館の展示品を見ているのと同じ目線だ。


 気付いて直ぐに居心地が悪くなり(僕はそんな大層な存在じゃないよ)、彼に声をかけた。
 「あの」
 予想以上に情けない声になったのは、僕が思っていたより動揺していたからだろう。
 僕の声に彼が一度瞬きをする。つられた様に僕も瞬いて、目を開いた時には彼の表情が変わっていた。
 「なあ、此処の美容師ってあんた1人?」
 「え?ああ、スタッフは居るけど基本は僕1人だよ」
 虚をつかれてまた情けない声が出た。きっと顔も嘗て無いほど間抜けだろう。嫌だな、人の事を言えない。
 思っていたら彼が少しだけ笑った。
 笑うと少し懐っこい印象を受ける。存外乱暴な言葉遣いと言い今の笑顔と言い、僕が思っていたより彼の実年齢は幼いのかもしれない。
 「そか、うん。それなら良いや。―――お休みの所お邪魔して、すみませんでした」
 僕の答えに何か納得したのか幾度か頷くと、彼は口調を改めて深くお辞儀をした。
 突然の出来事に、僕は目を白黒させながら彼の行動を見守る事しか出来なかった。彼は僕を気にした様子も無く、頭を上げた後やけにすっきりした表情でさっさと立ち去ろうとする。


 ちょっと待ってくれ、君はそれで良いかもしれないが僕は何も分かっていないんだ。


 「待って」
 反射的に彼を呼び止める。きょとんとした表情で彼は振り向いた。




 「結局君は何の用だったのかな」
 振り向いた彼を真っ直ぐ見据えて言う。彼も僕の雰囲気を悟ったのか、身体を真っ直ぐ此方へ向けて僕を見上げた。
 「君の様子からすると僕が関わってるみたいだけど、残念ながら僕は君を知らない。理由を聞く権利くらい僕にはあるだろう?」

 違うとは思うけれど、余りにも突飛な行動に疑わねばならない事は出来た。
 彼は美容院に何をしに来たのか、彼の今までの言動からおそらく人探し多分僕を探しに来た。
 此処で問題となるのは『どの』僕に会いに来たか、だ。
 美容師としてなら問題ない。だけど、もし違うのなら。

 「あー、っと」
 「もしかして、A・T関係?」
 目を細めて探るように問い掛けるが、彼は僕の言葉の意味に気付くと盛大に顔を歪めた。
 うわ、すっごく面白い顔。
 「エアトレックぅう?」
 素っ頓狂な声を上げる彼に僕は瞬く。
 「違うの?」
 「違えよ。てか、何でそんなとこに飛ぶのかが分からん。俺はただ、」
 「ただ?」
 「俺の彼女があんたに惚れたって言うから、見学しに来たんだよ。……っ!」
 「は?」


 しまった、とでも言うように彼は口を押さえた。
 今、彼は何を?
 「だから、俺の……元カノが、あんたが好きだから別れてくれって言い出して、どんなんだよって気になったから見に来たんだよ!しかも見に来たら矢鱈良い男で、勝てるわけねえよって納得して帰る所だったんだよ、畜生!」
 吐き捨てる様に一息で言った彼の台詞を頭の中で反芻し、僕は込み上げて来る其れに負けて、盛大に噴出した。
 視界の隅に映る彼が憮然とした表情で僕を見ている。
 申し訳ないと思うが、堪え切れそうに無い。これは、僕の人生最大のヒットかもしれない。





 「あー、笑った笑った。こんなに笑ったのは久しぶりだよ」
 「そうかよ、そいつは良かったな」
 悪態をつく彼に僕は笑った。
 彼はとても面白い、素直にそう感じた。たった十数分の出来事で僕は彼が気に入ってしまっていた。もし僕が犬なら尻尾を盛大に振っていただろう。
 彼はとても変わっているけれど、多分とても良い奴だ。

 「うーん、僕の所為と言って良いかわからないけど、まあ多分僕の所為なんだよね」
 「あー、そうかもなー」
 適当な返事をし、ふらふらと視線を彷徨わせる姿に僕はまた噴出しそうになる。
 「俺そろそろ」
 「じゃあ、お詫びに僕が君のカットするって言うのはどうかな」
 「は?」
 急いで帰ろうとする彼を僕は素早く引きとめた。
 こんな面白い出会いは長く生きたって二度と無いと思う。だから、長生きできないだろう僕はこの出会いを逃すわけにはいかないんだ。
 「僕が君のヘアカット。勿論無料で、カラーリング興味があるならそっちもサービスもするよ」
 「いや、何でそんな話に」
 ごもっともな意見だけど、流させたりしない。
 最初は君が一方的にやってきたんだから、今度はこっちの番だろう?
 「僕の所為で嫌な想いさせちゃっただろう?だから、お詫び」
 「はあ……」
 笑う僕に、困惑した表情で応える彼は一度盛大な溜息をついて、くるりと身体を反転させた。
 「あ」
 今度こそ行ってしまう。どうにか引き止めなくちゃ、そう考えていると彼が顔だけ此方へ向けて―――顔いっぱいに不本意と書いた苦々しい表情だったけれど。





 「気が向いたら」





 応えてくれた。
 其の時感じた嬉しさは、あれから一年以上経った今でも良く覚えている。











  忘れられない日
 (どれだけ経っても忘れられない、あの日の出来事。間抜け面と間抜けな台詞が気に入ったって言ったらきっとは殴るんだろうなあ)