#02 //
赤い月の日以来、葛馬は夜の外出を控える様にしていた。
経験が浅いし、まだまだ未熟だったからA・Tの練習はきちんとしていたが、なるべく遅くならない内に家に帰るようにしていた。
勿論遅くなる時でもあの公園がある方向とは逆に向かう様にしていた。
そのくらいあの夜の出会いは衝撃的だった。
最初は唯のカップルのキスシーンだと思っていた。だが、男の方が人ではなかった。
(あれって、角だよな)
絵本で見た事がある鬼の角とは違う、どちらかと言えば山羊の角に近い形をしていた。
髪も目も燃える様に赤く、眼差しはしっかりと葛馬を捉えていた。
誰にも相談する事は出来ない。樹に話せばきっと前の様にからかわれてしまう。かと言って林檎や他の連中に話した所で誰も真剣に取り合ってはくれないだろう。
否、真剣には聞いてくれるかもしれないが『真実』としては聞いてくれない。
今までの経験から葛馬は其れを知っていた。
葛馬が見た真実も、実際言葉にしてしまえば荒唐無稽な物語となるのだ。
何より今回は葛馬自身信じられずに居る。
何かの見間違いだったのではないかと思う。そうであればどれほど楽だった事か。
だが、哀しい事に葛馬があの夜に見た全ては現実だった。
目に焼きついてしまった出来事は、あの夜を思い出す度に鮮明に浮かび上がってくる。
幻や夢にしては出来すぎているのだ。
葛馬は溜息を吐いた。これから自分に出来るのは、夜は早めに帰る事とあの公園に近付かない事。まるで小さな子供の様だ。
考えて、葛馬はもう一度大きな溜息を吐いた。
「カズ様、どうしたの?」
葛馬の様子がおかしい事に気付いた絵美理が問いかけてくる。葛馬は顔を上げると、何でもないと小さく微笑んだ。
誰に話してもきっと信じてはもらえないだろう。
其の光景を見た葛馬でさえ半信半疑なのだから。
信じられないと信じたくないの狭間で、葛馬の心が揺れている。
「―――――何なんだよ、本当に」
忌々しげに呟かれた言葉を聞き取れなかったのか、傍で絵美理が不思議そうに首を傾げた。
あの記憶は葛馬にとって非常に忌々しいものだった。其れは間違いない。
だが、其れと同時に2度と出会わないだろうと言う気持ちもあったから、其の記憶は葛馬の中でホラー映画と同じ扱いがされていたのも真実だ。
あの夜は明るいとは言い難かったし、距離も近くは無かった。向こうが葛馬に気付いても顔までは分からないだろうと思っていたからだ。
だからこそこの状況が信じられなかった。
何時もの様に帰ろうとする葛馬の前に、赤い―――まるであの時の月の様な色の―――髪の男が立っている。
ごくり、と息を飲んだ音がやけに大きく響いて聞こえた。
男は真っ直ぐ葛馬を捕らえて、口の端を上げて笑った。
気付いている、其の笑みで直ぐに理解した。
同時に自分が愚かだったと気付く。男は葛馬の顔を知らないかもしれないが、葛馬が男を見間違えないだろうと分かっていたのだ。
自分を見ただろう少年の前に立てば、少年が勝手に反応してくれると知っていてこうして姿を現した。
そして男の思惑通り葛馬は過剰に反応を示した。
それでおしまい。
自分の愚かさに葛馬は舌打ちをしたい気分だった。
男がゆっくりと近付いてくる。ああ、せめて今A・Tを履いていたら、見付かると面倒だからなんて言わないで履いて出れば良かった。
思考がめぐる中、手を伸ばせば触れられる程近くに来た男が葛馬と視線を合わせて笑う。
「こんにちは。ああ、今はこんばんはのが良いかな?―――――僕の事、覚えてるよね」
問いではなく確信を持って男は告げる。
背筋を嫌な汗が流れ落ちる。
逃げろ逃げろと理性が警告を発しているのに、身体が言う事を利かない。
そして本能が何かを教えてくれている。
怯えた目で見る葛馬に、男は柔らかく微笑む。
「そんなに怯えないでよ。別に君をどうこうしようなんて思ってないから」
「………」
「信じてもらえないかな?」
葛馬が犬だったら、尻尾を巻きながら威嚇している状態だろう。逃げたい逃げたいと全身で訴えながら、葛馬は目の前の男を睨み付ける。
もしかしたら敵じゃないかもしれない、なんて心の何処かで思いながら。
「ああ、そうだ」
ふと男が笑って、空を指差す。
「君、アレが見えるでしょ」
「?」
「あの灰色の月」
全身が粟立った。
心臓が激しく音を立てて、暑くないのに汗が噴出してくる。
「君はどうやら混血みたいだけど」
珍しいなあ、なんて男は無邪気に笑う。
葛馬はそんな事どうでも良かった。動揺しているのか、高揚しているのか、恐怖しているのかわからなかったが、今自分が興奮している事はわかっていた。
自分と祖母以外に、あの月が見える人間が居たのだ。
祖母に聞きたくても聞けない事がたくさんあった。
其の答えを目の前の男がくれるかもしれない。其れは確かな期待だった。
だが、見知らぬ男を信じて良いのかと言う警戒心が、かろうじて葛馬にブレーキをかける。
「あんた、何なんだ」
此処に来て葛馬は漸く口を開いた。
恐怖も期待も不安も衝撃も全てを飲み込んで、唯其の一点を問い掛ける。
男はきょとんと無防備な表情を見せ、不思議そうに首を傾げた。
「君は、自分が何の血を引いているのか知らないのかい?」
「―――」
「あー…まあ、混血なら仕方が無いかな。君が能力を持っているなんて思ってもいなかっただろうし」
血、という単語に身体を震わせながら、葛馬は大きく頷いた。
今まで人間だと思っていた自分ももしかしたら先日のこの男の様に、異形の姿を持っているかもしれない。
其れを考えると隅に追いやってきた恐怖が大きく首を擡げてきた。
「あ、俺」
「僕達はね」
やっぱり聞きたくないと言う前に、男が口を開いた。
タイミングをそがれ、葛馬は口をつぐむ。
其れにもう一度男は首を傾げ、瞬きながらもう一度「僕達は」と呟いた。
存外優しい眼差しにどう反応して良いのか戸惑いながら、葛馬は男の言葉を聞いていた。
「遠い昔、あの場所に住んでいた生き物の末裔なんだよ」
空を仰ぎ、灰色の月を見上げて男は言う。
「正式な呼称は無いけれど、僕達は自分の事をこう呼んでいるよ」
葛馬を真っ直ぐ見下ろし、視線を絡ませて男は笑った。
経験が浅いし、まだまだ未熟だったからA・Tの練習はきちんとしていたが、なるべく遅くならない内に家に帰るようにしていた。
勿論遅くなる時でもあの公園がある方向とは逆に向かう様にしていた。
そのくらいあの夜の出会いは衝撃的だった。
最初は唯のカップルのキスシーンだと思っていた。だが、男の方が人ではなかった。
(あれって、角だよな)
絵本で見た事がある鬼の角とは違う、どちらかと言えば山羊の角に近い形をしていた。
髪も目も燃える様に赤く、眼差しはしっかりと葛馬を捉えていた。
誰にも相談する事は出来ない。樹に話せばきっと前の様にからかわれてしまう。かと言って林檎や他の連中に話した所で誰も真剣に取り合ってはくれないだろう。
否、真剣には聞いてくれるかもしれないが『真実』としては聞いてくれない。
今までの経験から葛馬は其れを知っていた。
葛馬が見た真実も、実際言葉にしてしまえば荒唐無稽な物語となるのだ。
何より今回は葛馬自身信じられずに居る。
何かの見間違いだったのではないかと思う。そうであればどれほど楽だった事か。
だが、哀しい事に葛馬があの夜に見た全ては現実だった。
目に焼きついてしまった出来事は、あの夜を思い出す度に鮮明に浮かび上がってくる。
幻や夢にしては出来すぎているのだ。
葛馬は溜息を吐いた。これから自分に出来るのは、夜は早めに帰る事とあの公園に近付かない事。まるで小さな子供の様だ。
考えて、葛馬はもう一度大きな溜息を吐いた。
「カズ様、どうしたの?」
葛馬の様子がおかしい事に気付いた絵美理が問いかけてくる。葛馬は顔を上げると、何でもないと小さく微笑んだ。
誰に話してもきっと信じてはもらえないだろう。
其の光景を見た葛馬でさえ半信半疑なのだから。
信じられないと信じたくないの狭間で、葛馬の心が揺れている。
「―――――何なんだよ、本当に」
忌々しげに呟かれた言葉を聞き取れなかったのか、傍で絵美理が不思議そうに首を傾げた。
あの記憶は葛馬にとって非常に忌々しいものだった。其れは間違いない。
だが、其れと同時に2度と出会わないだろうと言う気持ちもあったから、其の記憶は葛馬の中でホラー映画と同じ扱いがされていたのも真実だ。
あの夜は明るいとは言い難かったし、距離も近くは無かった。向こうが葛馬に気付いても顔までは分からないだろうと思っていたからだ。
だからこそこの状況が信じられなかった。
何時もの様に帰ろうとする葛馬の前に、赤い―――まるであの時の月の様な色の―――髪の男が立っている。
ごくり、と息を飲んだ音がやけに大きく響いて聞こえた。
男は真っ直ぐ葛馬を捕らえて、口の端を上げて笑った。
気付いている、其の笑みで直ぐに理解した。
同時に自分が愚かだったと気付く。男は葛馬の顔を知らないかもしれないが、葛馬が男を見間違えないだろうと分かっていたのだ。
自分を見ただろう少年の前に立てば、少年が勝手に反応してくれると知っていてこうして姿を現した。
そして男の思惑通り葛馬は過剰に反応を示した。
それでおしまい。
自分の愚かさに葛馬は舌打ちをしたい気分だった。
男がゆっくりと近付いてくる。ああ、せめて今A・Tを履いていたら、見付かると面倒だからなんて言わないで履いて出れば良かった。
思考がめぐる中、手を伸ばせば触れられる程近くに来た男が葛馬と視線を合わせて笑う。
「こんにちは。ああ、今はこんばんはのが良いかな?―――――僕の事、覚えてるよね」
問いではなく確信を持って男は告げる。
背筋を嫌な汗が流れ落ちる。
逃げろ逃げろと理性が警告を発しているのに、身体が言う事を利かない。
そして本能が何かを教えてくれている。
怯えた目で見る葛馬に、男は柔らかく微笑む。
「そんなに怯えないでよ。別に君をどうこうしようなんて思ってないから」
「………」
「信じてもらえないかな?」
葛馬が犬だったら、尻尾を巻きながら威嚇している状態だろう。逃げたい逃げたいと全身で訴えながら、葛馬は目の前の男を睨み付ける。
もしかしたら敵じゃないかもしれない、なんて心の何処かで思いながら。
「ああ、そうだ」
ふと男が笑って、空を指差す。
「君、アレが見えるでしょ」
「?」
「あの灰色の月」
全身が粟立った。
心臓が激しく音を立てて、暑くないのに汗が噴出してくる。
「君はどうやら混血みたいだけど」
珍しいなあ、なんて男は無邪気に笑う。
葛馬はそんな事どうでも良かった。動揺しているのか、高揚しているのか、恐怖しているのかわからなかったが、今自分が興奮している事はわかっていた。
自分と祖母以外に、あの月が見える人間が居たのだ。
祖母に聞きたくても聞けない事がたくさんあった。
其の答えを目の前の男がくれるかもしれない。其れは確かな期待だった。
だが、見知らぬ男を信じて良いのかと言う警戒心が、かろうじて葛馬にブレーキをかける。
「あんた、何なんだ」
此処に来て葛馬は漸く口を開いた。
恐怖も期待も不安も衝撃も全てを飲み込んで、唯其の一点を問い掛ける。
男はきょとんと無防備な表情を見せ、不思議そうに首を傾げた。
「君は、自分が何の血を引いているのか知らないのかい?」
「―――」
「あー…まあ、混血なら仕方が無いかな。君が能力を持っているなんて思ってもいなかっただろうし」
血、という単語に身体を震わせながら、葛馬は大きく頷いた。
今まで人間だと思っていた自分ももしかしたら先日のこの男の様に、異形の姿を持っているかもしれない。
其れを考えると隅に追いやってきた恐怖が大きく首を擡げてきた。
「あ、俺」
「僕達はね」
やっぱり聞きたくないと言う前に、男が口を開いた。
タイミングをそがれ、葛馬は口をつぐむ。
其れにもう一度男は首を傾げ、瞬きながらもう一度「僕達は」と呟いた。
存外優しい眼差しにどう反応して良いのか戸惑いながら、葛馬は男の言葉を聞いていた。
「遠い昔、あの場所に住んでいた生き物の末裔なんだよ」
空を仰ぎ、灰色の月を見上げて男は言う。
「正式な呼称は無いけれど、僕達は自分の事をこう呼んでいるよ」
葛馬を真っ直ぐ見下ろし、視線を絡ませて男は笑った。
月人