#01 //

 (あ、赤い)
 教室の窓から空を見上げた時、其れは視界に飛び込んで来た。
 葛馬と祖母にしか見えなかったもうひとつの月。歪な形をした灰色の其れは、珍しく色を変えていた。
 毎日確認しているわけではないから、いつどんな色の変化をするか葛馬は知らなかったが、今日は赤い色をしていた。
 (其れで身体が軽いのか)
 どう言う事情か詳しくは知らないが、もうひとつの月が赤い色をしている時葛馬の体調は常より良かった。
 急激に身体能力が上昇するわけではないが、いつもより身体が軽く感じるのだ。
 幾度か瞬いて葛馬は其の月を見上げていた。
 幼い頃からずっと見ている月。葛馬と、葛馬の祖母にしか見えなかった月。
 祖母はあの月に関して何か詳しく知っているようだったが、其の話を聞く事は叶わなかった。
 葛馬は小学校に上がる少し前、祖母はこの世を去った。
 数日前に亡くなった祖父を追う様に、静かに。
 最期に葛馬を見て「ごめんね」と微笑んだのをよく覚えている。
 其の日の夜はとても良く晴れていて、灰色の月がいつもより鮮明に見えていた。
 祖母に聞きたい事は沢山あった。成長してから増えた、とも言えるが。


 何故自分だけ見えるのか、あれは一体何なのか。


 溜息を吐く葛馬の頭に、大きな手が乗せられた。
 「よお、カズ。何してんだ?」
 葛馬の顔を覗きこんで来たのは幼馴染の南樹だった。
 乗せられた手を邪険に振り払って、葛馬は「何でも無い」と応える。
 樹は数度瞬き、葛馬が先程まで見ていた空を仰いだ。
 「もしかして、またもう一個の月とか言うやつか?」
 「もう一個の月?」
 聞き慣れない単語を耳聡く聞き付けた林檎が、問い返してきた。
 眼鏡の奥で大きな目がきょとんと樹を見上げている。
 葛馬は其の様子に顔を顰める。「何でも良いだろ!」と怒鳴ろうとした口は素早く樹に封じられた。
 樹は林檎を見下ろし、少し偉そうに笑いながら応えた。
 「昔っからカズが言ってたんだよ。空にはもうひとつ月があるって」
 「もうひとつの月?」
 「朝でも昼でも見えるらしい」
 林檎は少し目を細めて空を仰いだ。
 葛馬は其の様子をほんの少しの期待を込めて見つめていた。
 樹は見えなかった。もう1人の幼馴染のオニギリも。今まで出会った誰もが見えなかった。
 だけどもしかしたら、誰か―――――。
 だが、其の思いはあっさりと砕け散る。
 空を見上げていた林檎は、他の人間と同じ様に不思議そうに首を傾げただけだった。
 「うーん、私にはもうひとつの月どころか、いつもの月も見えないんだけど」
 「ま、当然だろ。ありゃ、カズの妄想だもんな」
 なー、と小馬鹿にした様に笑いかける樹を睨み付けて葛馬は視線をそらした。
 妄想等ではないし、幻覚でもない。
 あの月は確かに其処にある。
 だが、成長し、他の誰も見えないと言われると段々と其れが幻の様な気がしてきてしまう。
 (違う、あるんだ。月は、もうひとつ)
 「あー、えっと。カズ君は夢があるんだね」
 樹の馬鹿にしたような視線より、見当違いな林檎のフォローが逆に胸に刺さった。









 夜の街を愛用のA・Tで駆け抜ける。
 昼間の苛立ちを払拭するかの様に葛馬は我武者羅に街を駆けた。
 「なんだよ、イッキの奴!あんなに笑う事ねえだろ!」
 吐き捨てる様に呟きながら、ビルからビルへ飛び移り、誰も居ない公道を走りぬける。
 誰よりも速く速く。
 最初は苛立ちからだった走りも、時間が経つに連れて頭の中は別の思考に支配されていた。
 「速く走れるようになりたい」という想いに。
 葛馬は良くも悪くも素直で快楽主義な今時の少年だった。
 明日になればまた思い出すかもしれないが、今は兎に角この心地良い風を感じていたい。
 そうしていつしか葛馬の顔は笑みで彩られていった。
 月の為か身体が軽いおかげで、今まで挑戦しては失敗していた技も難なくこなせてしまう。
 「へへ」
 笑いながら葛馬は夜を駆け、気が付くと見覚えの無い公園まで辿り着いていた。
 今まで辿った道は覚えているから、帰り道で迷う事は無いだろうと思い、葛馬は火照った身体を覚ますべく水道の蛇口をひねった。
 冷たい水が噴出し、葛馬の喉を潤していく。
 思う存分水を飲み、人心地ついた時葛馬は初めて園内に他の人間が居る事に気付いた。
 「あっ」
 園内の人間は2人、良く見えないがカップルらしかった。
 A・Tの音は静かとは言い難いから葛馬が来た事に気付いているだろうに、彼らは気にした風も無く口付け合っていた。
 逆に目撃してしまった葛馬の方が動揺する。
 「ちょ、ヤベ…どうしよ、ってさっさと行くべきだよな!」
 立ち去るのがベストだと分かっていながら、葛馬は其の場から動けなかった。
 思わぬ所で他人のキスシーンを目撃してしまった動揺と、ちょっと見てみたいと言う思春期独特の好奇心故だっただろう。
 「少しくらい、見てても大丈夫、だよな…?」


 軽い気持ちでした選択がこれからを大きく変える事になるとは、葛馬自身気付いてはいなかった。


 男は細身だが長身で、ヒールの所為で葛馬とさほど変わらない身長の女性をすっぽりと腕に包み込んでしまっている。
 興奮で高鳴る胸を抑えながら、葛馬は其の2人から目をそらせずに居た。
 ゆっくりと男の顔が離れていく。と同時に女の身体が男の方に傾いた。
 女の身体を受け止めた男がゆっくりと葛馬を振り返る。
 「あ」
 ヤバイ、目が合う。葛馬はそんな事を考えていた。
 覗き見をしていたなんてバレたら怒鳴られるかもしれない。いや、でもこんな所でキスしてる方だって悪いだろう。
 ぐるぐる思考を巡らせて、葛馬は其れを目にした。


 月に照らされた男の影が、少し形を変えていた。
 一瞬で頭が冷める。
 ゆっくり顔を上げた先、男の顔が見えた。
 炎の様に―――あの月の様に―――赤い髪、其の間から飛び出した異物。
 葛馬の口から吐息が漏れた。
 男から目が離せない。あれは、何だろう。
 男の赤い目が葛馬を捕らえ、少し目が細められた。
 ぞくりと背中を嫌な感覚が駆け抜けて、其れと同時に葛馬は駆け出した。





 轟音の後公園に残されたのは激しい砂煙と、気を失った女を抱える男。
 男は葛馬が消えた先を見、ゆっくりと瞬いた。








  赤く染まった月